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しかし、揚げ蒲鉾については、この時代に仙台、宇和島においても製造されていたという記録は見あたりません。そのため、揚げ蒲鉾の製法は伝わっていなかったと思われます。揚げ蒲鉾が宮城県で生産されたのは、1955(昭和30)年ごろ。塩竈(しおがま)を中心に始められたとされているので、江戸時代初期には揚げ蒲鉾の製造技術はまだなかったと推定されます。 |
| 一般的に揚げ蒲鉾は薩摩揚げと呼ばれていますが、西日本、特に、長崎県、大分県や愛媛県では「てんぷら」とも呼ばれています。揚げ蒲鉾も「てんぷら」、エビなどに衣を付けて油で揚げる料理も「てんぷら」であり、ややこしくはありますが、現在もこの2つの料理をともに「てんぷら」と呼ぶ地域は残っています。ちなみに「てんぷら」という言葉自体は、もともと南蛮料理の一種で、語源がスペイン語の「templo(寺院)」やポルトガル語の「temporas(斎時)」「tempero(調味料)」などだという説が多いようです。 16世紀半ばにポルトガルやスペインなどと交易が始まり、鉄砲が種子島、キリスト教が鹿児島に伝えられるなど、南蛮文化が日本に入ってきました。このころ、南蛮料理が最初に入った沖縄で、「チキアーゲ」と呼ばれる魚のすり身の揚げ物が、鹿児島に伝わって「つけ揚げ」となり、大分を経由して宇和島に伝えられたと考えられます。 なぜ大分を経由したのかは、はっきりしません。織田信長、豊臣秀吉らが天下を取っていた安土桃山時代、九州の大部分を支配していた豊後(現在の大分県)の領主で、洗礼を受けてフランシスコと名乗っていたキリシタン大名の大友宗麟(そうりん)が、南蛮文化を積極的に取り入れたとされています。そして、一時勢力下にあった宇和島に伝えられたと考えられます。ただ、油が灯油として貴重なものであったこの時代、油で揚げる技術が伝えられたとしても、とても食用には使用できなかったでしょう。揚げ蒲鉾は大名などの一部の人しか味わえないものだったと想像されます。 このころ、油を使った料理が伝えられたのは確かなようで、「南蛮漬け」は今でも受け継がれている料理の代表格でしょう。イワシやゼンゴなどの小魚を一度油で揚げ、砂糖や酢で調味した液に浸けて食べる料理のことで、魚を骨ごとおいしく食べられる定番の料理です。 揚げ蒲鉾が庶民の口に入るようになったのは、早くても江戸時代後期あるいはそれ以降と思われます。そのため、じゃこ天の元祖のルートは仙台からとするよりも大分から伝えられたとする説が有力だと考えられます。つまり、1716~36年(享保年間)ごろに製造されていた「はんぺん」を植物油で揚げて作られたのが始まりで、1804~30年(文化・文政年間)ごろには、なじみ深い食べ物となっていったのでしょう。当時、宇和島は、6代藩主村寿(むらなが)と7代藩主宗紀(むねただ)の時代で、京坂あるいは鹿児島、長崎から製法が移入され、ゴマや菜種油で揚げられていたと推測されます。上記のことが、松本麟一著の『過ぎさりしも』に記されています。南蛮料理のほかに、南蛮菓子もこのころに伝えられ、今でもコンペイトウ、キャラメル、カステラ、パンなどがポルトガル語を語源とした外来語として残されています。また、外来作物としてカボチャ、トウモロコシ、トウガラシ、ジャガイモなどもこのころに伝えられたとされています。 |
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