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田舎の青年団が消えちゃいました

2008年09月26日

 私は18歳から26歳までの若いころ、地元の青年団に入って活動をしていました。1955(昭和30)年に2つの町村が合併して双海町が誕生し20年近くになるというのに、そのころはまだ旧町村単位の下灘、上灘という2つの青年団があってお互いが競い合っていました。私が双海町青年団長に就任した23歳のころは団員も100人を超えていて、それぞれの地域には支部と称する下部組織があり祭りや盆踊りを請け負っていました。26歳の時に、愛媛県青年団連合会長を務め結婚したこともあって、私の青年団活動は8年間で終わりました。
 私は青年団で(1)仲間(2)ふるさと(3)主張(4)感動する心――という4つの道具を手に入れ、以来、その道具のおかげで今日まで楽しくも充実した人生を送ることができたのです。青年団のインリーダーを終わったその後は、教育委員会でアウトリーダーとして青年を育てるためにいろいろな活動を行いました。
 その一つが「人づくり10年計画」でした。青年団員の中から毎年10人ずつを選び、日本一と目される国内各地へ旅に出たのです。日本一のコミュニティーの町・大分県大山町、日本一高い山・富士山、日本一広い町・北海道足寄町、南の沖縄県渡嘉敷の無人島などに100人もの人が派遣され、多くのことを学んで地域の中に種のごとくばらまかれたのです。

 先週の日曜日、沖縄と富士山に行った人たちの同窓会が、ふたみシーサイド公園の夕焼けいもたき会場で持たれ、私も招かれて参加しました。あのころ若かった青年団員たちも50歳の峠を越えて白髪が目立ち始め、いい年ごろになっていました。自分の住んでいるふるさとを輝かせたいと頑張っていた若かりしころの積もる話は楽しいことがほとんどでした。

久しぶりに出会った青年団の後輩たち
【写真】久しぶりに出会った青年団の後輩たち

 それにしても今、青年団はわが町のような田舎にさえもほとんどなくなって、青年団という言葉も死語に近い状態で、青年たちの活動を目にすることは少なくなっているのです。
 「これは時代の流れだ」とあきらめて目をつぶるのも生き方、いや「何とかしなければ」と考えるのも生き方です。いつの世もみずみずしい青年の考えと行動が社会をリードしてきた日本近代化の歴史を振り返れば、何とか日本の国づくり、ふるさとや田舎再興の地域づくりに青年の力を結集できないものかと思うのです。
 この日集まった元青年団員の後輩たちが口々に「今の自分があるのは青年団のおかげだ」と言っていたのは本心だと思います。私がそうであったように、彼ら彼女らも仲間がたくさんでき、ふるさとに深くかかわって生きています。また、自分の主張が述べられるようになったし、感動する心も育ちました。「人の悲しみをわが身の悲しみと思い、人の喜ぶ姿を喜びとしなから、苦難において忍耐し希望を持って歓喜する」といった青年時代によく使った言葉を時として思い出しました。

 青年が集まらないことを理由に、また金がないことを理由に青年を集めることができない社会教育に青年団再興を期待することは、もはや願うべきもありません。また、青年自身の中から泉のごとく自噴することも不可能に近いようです。しからば私がと腕まくりをし人間牧場で頑張ってみたところで、青年団はよみがえらないのです。
 でも、若者不在で国が栄えたためしはないのですから、それぞれがそれぞれの立場で、せめて1人の若者を育てるくらいの気概を持って生きていく、それが青年団で育ててもらった青年団への恩返しのような気がするのです。

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